咽頭癌のおじいさんと、その息子
ある接客業を同じ場所で、かれこれ10年近くやっている。
そうすると避けられないことがある。親しくしていたお客さんがお亡くなりになっていくのだ。高齢者のお客さんが多いので、そういう方を見送ったのは一人や二人ではない。
良く冗談で
「来年の夏までもつかなぁ」と、高齢者あるあるの自虐ネタを言われるのだけど、このネタに何と返答するかにはいつも困る。
先日、ある本を読んでいたら咽頭癌という言葉が目に入り、咽頭癌を患っていたおじいさんのお客さんのことを思い出した。
その方が来ると、こちらはさっと筆談の準備を始める。要件が終わると、おそらく「ありがとう」と言っているのであろう、喉をウガァアと鳴らす。
そのおじいさんは、次第に認知症となり癌の転移が見つかってお亡くなりになられた、と噂で聞いた。
しばらくすると、アメリカで働いているという息子が諸々の手続きをしにやって来た。頭の良さそうな、さっぱりとした性格の男性で、私の同僚達からも好感を持たれていた。西海岸に勤務先があるらしく、Tシャツ一枚で来ては日本は寒いと冗談を言っていた。
諸々の手続きが終わって、彼がアメリカに帰る前にお世話になりましたと、私の勤務先に立ち寄った。
担当である私の同僚の女性と親しげに話していると、A4の紙が床に落ちているのを見つけた。
なんだろと、その紙を拾い、軽く埃をはらうと、紙の中央にシワがある。いや、シワというか、線である。
何かの跡かな?とその紙を捨てようとすると、線が増えているのに私は気付いた。爪で紙を引っ掻いたような跡だ。良く見てみると、その線は文字のようだ。
「まあ、親父は勝手な人でしたから。一人で大変なことも多かったと思うんですけど、その方が良かったのかなって。」と息子は言った。私の同僚も、さも同情を示すかのように、親しげに頷いた。
私の目の前にある紙には、更に線が増え、線が文字を形成しているのがはっきりと分かってきた。最初の文字は「ア」だ。
「自分も結構忙しいんで、次いつ日本に帰れるか分からないんですよ。」
息子はまだ話を続けていた。
紙の上には、更に文字が刻まれ、「イツ」と浮かんできた。「アイツ」、「あいつ」だ。
「じゃ、これで僕の口座に振り込まれるんですよね、はい、了解しました。」
紙がガサガサと揺れて、更に線が刻まれた。「チガウ」
「あいつちがう」と紙の上の線は読める。
「じゃあ、本当にどうもお世話になりました。今夜のフライトで帰ります。」
息子は、私にも一礼して、その場を後にした。
「Tさん、凄い額のお金遺してたんだね、あの息子さんが全部相続だって。ひえー、でも、あの息子さん全然Tさんに似てなかったよねー、お母さん似なのかしら。」