さらば、おくば。
一月ほど前、「レニングラード・ホテル」という舞台作品の稽古に向かう途中、ポロっと奥歯がとれてしまった。
奥歯と言っても、元々の歯はギリギリ土台が残っている程度で、その上に金歯を何とか接着していたのだが、とうとう限界に達したらしい。
「レニングラード・ホテル」の旅公演も迫っていたので、急いで歯科医に行くと、土台になっていた歯ごと抜けてしまっているから、ここに再び歯を接着させるのは無理だと言われる。
というわけで、私の右の奥歯は永久に失われてしまったことになる。
良く映画などで、身元不明の死体が発見された時に、歯の診察履歴などから身元を特定したりするシーンがあるが、右の奥歯がない死体が発見されたら、それは私かもしれません。
こうして、奥歯がスカッと空いてしまった空虚さを口内に感じながら、「レニングラード・ホテル」公演の終演を迎えたのだ。
たかだか、人工的な金歯ではあるが、もう永久に戻ることがないと思うと、愕然としてしまった。身体の一部を失うということは、こうもショックなものかと。
女性が乳房を失う悲しみなど、男の私には理解も共感もかなわないほどの悲しさなのだろうな。
利点もある。
悩みの種だった奥歯、食べカスが詰まりやすかったり、いつもグラグラしていて、なんだか気になっていて、軽いストレスの原因だったのだが、無くなったら無くなったでスッキリしたものだ。
そして、少しだけ新しい人間に生まれ変わったような心持ちにもなった。俺は新しいことを始めてやるんだぞ〜!とベジータのように叫びたい心持ちだ。まあ、現実は叫ぶ、なんてことができず、チマチマとこんな文章を書いてみたりするわけだが。
さて、落ち着いた日常が戻ってきたので、歯科医に通院しようと予約をとり、歯科に向かうと、予約に私の名前が見当たらないと受付の女性が言う。
いやいや、そんなはずはない。こちらはしっかりネットで予約をとり、しっかりと歯を磨き、歯間ブラシまで施し、麻酔のききが鈍ると困るから、大好きな朝のコーヒーさえ控えてきたのだ。
事実は小説より奇なり、時たま、現実世界でも不思議なことが身に振り返ってきた覚えがあるので、今回もまた何かが起きているのか…
「あっありました!ご予約は明日ですね。」
何のことはない、私の不手際だった。
トボトボと自転車で我が家へと引き返すことに。
相変わらずショボい日常である、この日常を劇的に変化させるには、奥歯くらいじゃ足りないってことなのか。