凶暴化する自分をくい止める方法
こんにちは、三男坊日記です。
どなたかのブログで、少し前までは日本の旧態然とした社会や人を叩けば、多くの共感を得ることが出来てアクセスを集めやすかった、という記事を読みました。
ネット上で、バサッバサッと既得権益層や、やたらと無駄な会議をしたがる「使えない」おじさん、おばさんを切り捨てるのは、確かに痛快で気持ちが良い。
愚かな僕は、そういう風潮に感化されて、「こんなことスマホで出来んじゃん」とか「人に聞く前にググってよ」と呟きながら、僕は自分の心が荒んでいることに気付いた。
そもそも人を「使えない」と、一つの側面からだけで判断するのは、あまりにも暴力的だ。
これは、あくまで愚かしい僕の場合なのだけど、テクノロジーっぽいものに触れて、少し自分が賢くなったと思った途端、人に対する寛容性や優しさが、自分の中から少しずつ消えているんじゃないかと感じたのです。誤解を恐れずに言えば、テクノロジーは人を凶暴化させるのではないか。
まあ、元々そんな仏のような人間じゃないけどもね。
最近、長らくご無沙汰だったヨガを再開してみた。少しづつでも、ゆる〜く生活の中に交ぜていければなあと思っている。相変わらず僕の身体はとても硬いし、できないポーズばかりなのだけど、まあ気長に取り組んでみようと続けている。
そこで思うのが、ヨガにゴールはあるのか?という問いだ。
この問いは、僕のようなヨガ初心者が答えるべき問いではないが、どんなヨガの達人も、最後はベッドの上でシャバアーサナ(屍のように横たわるポーズ)しかポーズできなくなる。
そう考えると、ポーズができるようになるのは表向きの目的で、もう一つの目的は、敵わない望みに対して、どう対処するかを学ぶ為にあるのではないかと思う。
つまり、最初からゴールは無い、と考えられる。ヨガはその過程にこそ学びがある。
大袈裟な話しになるが、「死」を超越するために科学技術を発展させるのか、ままならない「死」を受け入れるのか。後者の受け入れるという考え方がヨガ的、前者は人を傲慢にする。
まあ僕も、実際に自分や家族の「死」に接したら、前者にすがりつきそうですけど。
「アミ 小さな宇宙人」
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という本を何年か前に読んだ。
テクノロジーと一緒に愛の力が進化しないと、その文明は自滅してしまう、という言葉があったのを、スマホをいじりながら凶暴化する自分を感じて思い出した。
人には、進歩したい、今よりも良い自分になりたいという欲求がある。超一流の起業家さんは、その欲求が人の何倍もあって、成功しているのだろう。
テクノロジーが事業と結びついて、莫大な利益を生み出す弱肉強食のレースの中で、振るいにかけられ、脱落してしまう人もいる。
もちろん、昔ながらのやり方のほうが、人と人との繋がりが云々…とは僕も思わない。不便のせいで、救われなかったことも沢山あると思う。
ただ、テクノロジーを安易に持て栄すことで、失われることがあると意識しておかないといけない。
「俺に聞かないでググれよ」と思うことが多くなった自分の浅薄さに、「アミ 小さな宇宙人」の愛の力が進化しないと、その文明は自滅してしまうという言葉がヒリリと染み込むのでした。
読んで頂きありがとうございます。
それではまた。